「やれば出来る」というけれど、やることが出来へんねん。「才能はいらない、努力すれば出来る」というけれど努力の才能がないねん。
当たり前のように世の中に溢れている「努力すれば出来る」という言葉は、努力の才能がある人が、自分の持つその才能に気付かず作り出した言葉だ。気付いてくれ!あなたのその努力こそが才能なのだと!
私はとにかく一つのことを続けられた試しがない。これだけはずっと頑張ってきた、ということがひとつもない。歯磨きとお風呂以外、何も続けられたことがない。人一倍、何かを始めたがるくせに、人一倍、続かない。
そんな私が20代後半で一念発起して、一度だけ、奇跡的に30日間ランニングを続けたことがある。人が30日間同じことを続けると一生の習慣になると聞き、始めたのだ。2分でもいいからスニーカーを履いて外に出る。これだけだ。これを30日間達成できたら自分は変われるのだと信じたし、実際達成できた。だが31日目以降、二度とランニングをすることはなかった。私が何も続けることができないという事実を強めただけで終わった。
その人の持つ追求心とかキャパシティはなかなか変わらないと思う。追求心のある人達だけが人生でいろいろなことを達成していき、「努力すれば出来る」と謳う。
その努力の内容は「毎日◯◯する」とか「1日10時間◯◯する」とか「とにかく片っ端から◯◯する」とかそういうことだと思うのだが、それが一番難しいじゃないか。まずそんなことが出来るのならそりゃ何でも上手くなるだろう。その努力が、あの手この手を使っても、出来ない人には出来ないのだ!「さぁ、努力するぞ!」というモチベーションこそが才能だし、それを実際に続けられることが何よりの才能だ。
私は、やる気が100%あっても何故か一歩も動かないまま炎が燃え尽きてしまうことがある。モチベーションの才能までは持っているのだが、先送りの才能がどうしても上回ってしまうのだ。
努力の才能さえあれば、どんな分野だってある程度出来るようになるだろう。努力の才能こそがこの世で一番最強な才能なのだ。
今まで何か一つでも頑張った経験のある人は、自分を讃えてほしい。少なからず自分に努力の才能が眠っていることを自覚してほしい。努力のキャパシティは人それぞれ程度があるだろうし、環境の変化、パートナー、いろいろなきっかけで少しずつ変わっていくものだとも思う。
巷には努力せずに習慣を形成するHOWTO本も溢れている。それを読んで実践することがもうすでに努力だと思う。環境をコントロールし、自分を動かす。私達は努力の才能を身につける努力をするところからスタートするのだ。