30代に突入すると、誰かに怒られるということがほとんどなくなる。
変なことを言う。実は私は、誰かにめちゃくちゃ叱られたいという願望をひそかに隠し持っている。とても信頼している先輩などに「あなたの考え方は全部間違っている!」と頭をしばかれてもいい。
少し反抗してみるけどそれでも説き伏せられて泣きじゃくる。「だ、か、ら、何でわからんねんっ」って重めのファイルの角でゴンってされてもいい。
帰り道、友達に「え、私間違ってる?」って聞いて友達が「んー…」って全然フォロー出来てなくていい。家に帰ってもシャワーを浴びながら泣きじゃくり、布団の中でも泣きじゃくり、そのまま眠りに就く。
そんな日が人生にはあっていい。
定期的に自分のプライドをへし折る必要があるからだ。親知らずを抜くように、少し覚悟のいる一日だったりするのだが。
何を聞いても怒るおばさん、おじさんをよく見る。若いインタビュアーが機嫌をうかがって質問するのだが、機嫌をうかがわれていることに既にキレている。
歳を重ねると自分の中の正義がどんどん固まってくる。人は答えを求めたがるから、いろんな経験をもとに毎回何らかの答えに行き着き、自分の教科書を作っていく。これはこうだ、これはこうあるべきだ、と自分の中のデータベースを収集していくわけだ。
そのデータベースが増えれば増えるほど、人は頑固になっていく。自分のデータが正しいと信じてやまなくなる。
私の周りでも、30代に近づいた頃、年上の友達、私、そして年下の友達と、ちゃんと順番に頑固に変わっていったものだ。そして各々誰かにそのデータベースをぶっ壊されたりしながら、また丸くなっていったりもする。
この、プライドをスコーンとへし折ってもらう作業というのは貴重だ。だって本来、正解なんて何もないのだ。間違ってもいなければ、合ってもいないのだから。
なんとか秩序を保つために、最低限の共通の価値観があるだけでも助かっているのだ、人類は。
プライドとは、確かに邪魔にもなるし、必要でもある。
20歳で吉本の事務所に入った私は、デビュー当時、かなりの負けず嫌いだった。オーディションに自分が落ちてライバルが受かったときなんかは、かなり落ち込んで、家に帰ってもお風呂にたどり着く気力すらなく、裸でお風呂の前の廊下に3時間座り込んだりした。
それから10年間、いろんな同期に勝ったり負けたりしていくわけだが、いつからか、負けが続くと、負けることを悔しいと思わないようになっていた。心の防衛反応かもしれない。同期や後輩が売れて悔しいという気持ちもいつしかなくなる。負けず嫌いでなくなることは、勝つこともなくなるということだ。
そんな日々が続いたある日、私は「負けず嫌いの自分に戻りたい」と思ったのだ。プライドとは人間の生存本能。生きていくための負けず嫌いだ。
プライドを持つのも大変、捨てるのも大変、何て厄介な機能なのだろう。でも必要不可欠な機能だ。
プライドをへし折られたあとの視界はスッキリと明るい。でもそのままじゃいけない。
プライドは、積み上げては壊し、積み上げては壊す、永遠に完成しない作品のようだ。